虐待されて育った人の多くが疑問に思っていることではないかと思うのですが…
親になるのに「適性検査」も「資格」もないのって、不思議ですよね。
例えば車の運転免許を取得するには、2ヶ月くらい一生懸命教習所に通い、まじめに勉強もして何度か技能や筆記のテストを受け、30万円近くの費用を払ってようやく手にするということになります。
どうして車の免許を簡単に渡すことができないか?という私の質問に教官は「人の生命がかかっているから当たり前のこと」と答えていました。
「車は使いようによっては、罪の無い人を殺す凶器にもなる。故意でも過失でも、そのようなことは起こってはならない。だから、運転倫理や簡単な整備の仕方まで、事前にいろいろなことを学ぶ義務がある。」と。
そして「未熟な者、自覚の無い者が車を運転して事故を起こすことが無いように、なるべく厳しく審査するのが社会の責任」ともおっしゃっていました。
私も確かにそのとおりだと思います。
医師の免許しかり、調理師の免許しかり、人の命や健康を左右すると思われることをするにはそれなりの準備や覚悟、勉強といったものが必要です。
しかし一方で、無力な子供をいかようにもできる究極の仕事、「親業」というものに関しては、準備や勉強をしなければ認められないということがありません。適性検査も行われませんし、大きな事故や事件が起こらない限りはめったなことで子供を取り上げもしません。
子供を育てる知識も意欲も倫理観も無い人たちが、子供を産み育てることができる。これは果たして正しいことなのかと、私はいつも複雑な気持ちを抱いています。
暴力にさらされ、暴言を浴びせられ、性的にもてあそばれ、放置され、時には命まで奪われる子供たちを見ると、「全ての人間には無条件に親になる権利がある」とはとても思えないのが正直なところです。
自分自身の話をするならば、私の両親は子供を産み育てるための充分な能力のない人たちでした。
婚姻可能年齢の16歳や18歳を過ぎていれば、誰もに親になる能力や知識が「自然に」備わっているに違いないという前提は、全く現実にそぐわず、あまりにも能天気すぎると私は思います。
親になるとは自分以外の人間の生命と健康、そして人生そのものを左右する強大な力を持つことです。力を持つものには、責任があり、義務があるはずです。
子供は親の所有物ではないということをはっきり自覚し自分自身を戒めている親は、いったい世の中にどれだけいるのでしょうか。
教職員による犯罪や不祥事が相次いでいて、その選考基準を厳しくするべきだという話が出ていますが、教員よりも重大な責任と影響力を持つ親に関しても同じことを考えるべきではないでしょうか。
「親免許」などと言うとずいぶんと極端な意見に聞こえてしまうかもしれませんが…
虐待を受けて育った自分自身の体験と、実際に今現在虐待やネグレクトによって苦しんできた人たちと接してきての考えですので、もしこれを虐待の現実を知らない人たちが読んでくれているのなら、少しでも当事者の気持ちというものを理解していただければいいなと思います。
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